さとし日記

都内大学院生のブログ

論文が2段組になっているのは何故なのだろう?読みづらさは慣れの問題かもしれないが、翻訳にかけづらいのは致命的だと思う。

先日DeepL Pro Advancedに登録し、快適な翻訳生活が遅れると思ったが、元の論文が2段組だとそうもいかない。

 

全選択してペーストすると、段をまたいで文章が結合されてしまっていたり、部分的に選択できていなかったりする。

 

論文は何故2段組になっているのか?

軽く調べてみても、いまいち腑に落ちない。

 

「1行の文字数が多くなると可読性を損なう」というのも、紙の雑誌で出版されたものだけを読むなら、まだわからなくもない。

 

しかし、現代では、デジタルデバイス上で読まれることの方が多いと思うので、テキストデータとして扱いやすい形にした方が良いのではないかと思う。

 

それに二段組だと、図や表も小さくなりがちなのではないかと思う。

 

あまりにもサイズが合わない場合は、部分的に1段組にして挿入することもあるが、書く方にとっても手間だし、読む方にとっても読みやすいとは言い難い。

 

ただ、慣習で残っているだけなのだろうか。

74日ぶりにギプスが外れた。かなり大変なこともあったが、同時に得るものも多く、怪我を機に連続更新を始めたブログも今ではかなり楽しんでいるで良しとする。

4/20に病院に行って断裂が判明し、一昨日7/2にようやくギプスが外れた。長かった。。

 

まだ完治はしていないので、腕で体重を支えるような運動はできない。

 

ただ、ギプスで固定していたせいで、血行が悪くなっているし、筋力も著しく低下してしまっているので、徐々に戻していく必要がある。

 

1kgのダンベルを持ちながらの腕の曲げ伸ばしから始め、徐々に重くしていくことになった。

 

ここで焦って怪我を繰り返すわけにはいかないので、慎重に少しずつ進めていく。

 

 

かなり酷い損傷をしたせいで元には治らない可能性もあると言われてかなり落ち込んだが、それからブログを書くことが習慣になった。

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今日で53日間連続での更新となるらしい。

我ながらよく続くものだ。

 

ブログの内容は「捻り出した」ことはなく、頭に浮かんだことを、そのままさーっと書いている。

 

ダムに溜まった水を放水しているイメージだろうか。

あるいは、周期的であることを考えると、鹿おどしの方が近いかもしれない。

 

 

日々の生活の中で考えたことは、溜め込み過ぎずに適度に吐き出していった方が精神衛生上良いような気がする。

 

頭の中でモヤモヤしていることも活字にすることで明確になり、漠然とした不安感のようなものを抱きづらくなると思う。

 

 

そして、今回の経験から、 持続可能性を考え、無理をせず程々のところで切り上げることも学ぶことができた。

 

ただひたすら突き進むことは、ある意味で思考の放棄だったのかもしれない。

 

違和感を感じたら一旦止める勇気を持つことも大切だ。

 


ここ2.5ヶ月間は不便なことも多かったが、生活習慣や考え方などを見直す良い機会になったと思う。

 

ブログは飽きるまで続けるつもりなので、時間がある時にでもぜひぜひ。

シュプレヒコールとしての様相が強まってきた印象。時代性を把握したり、時事的な問題を考えたりすることはとても重要ではあるが、その為にも時に距離を置くことも大切かもしれない。

自分はどちらかと言うと影響を受けやすい方だと思うし、ミーハーなところもあるのでなんとなくで流されないように慎重になる必要がある。

 

自分の頭でよく考える習慣がないと、扇動的な意見に流され、特定の人物の発言を盲信するようになってしまう。

 

「説得力」の点では、何を言うかよりも誰が言うかが重要になることは多々あるが、そのような属人的議論は物事の実質とは関係がない。

 

特に、自分と同じような社会的な立場の人の意見だったり、肯定した方が都合が良いようなポジショントーク的な意見には気を付けていきたい。

 


Twitterの即時性や、そこで形成される文化はとても好きではあるが、最近は使用時間を半分以下にしてその時間を読書に当てることが多い。

 

YouTubeもアプリは削除して、勉強に使う時だけ、PCから見るようにした。

煽るようなサムネイルに釣られて観た動画で、何か得るものがあったことは殆どない。

ニュースはPodcastで代替できる。

 


今の自分にとっては、物事をよく考える為の素地を固めることにより多くの時間を割いた方が良いように感じる。

 

元々大量のニュースを見るのが好きだったら、少し制限するくらいがちょうど良いかもしれない。

 

これは自分の中での一時的なフェーズであり、良し悪しの問題ではない。

 

長期的に見たときのバランスを考慮した結果、しばらくはこの方針でいくことにした。

一人暮らしの人向けの場合は「レンジでチンするだけ!」のようなとにかく簡単なもの、主ふ向けの場合は、一手間加える必要のあるものが売れるらしい。

まぁ事情は分からなくもない。

 

昨日の夕飯のおかずの1つとして、セブンイレブンで買ってきた冷凍の「豚の生姜焼」をレンジで温めて食べた。

 

もしこれを人に提供するとして、自分一人の時と同じ心持ちでいられるかというと確かに微妙なところ。

 

「薄切りにした豚肉とタレは用意しておくから後は自分でやってね」くらいの方が気が楽かもしれない。

 

 

 

家事に限らず、なんでも「楽をするのは良くない/ズルい」という風潮は根強いと思うし、自分にもあるのだと思う。

 

一般論として、「ズルい」と感じるのは、自分よりも楽をしているように見えるのにも関わらず、自分と同じかそれ以上の成果を出していると判断したからなのだと思う。

もし楽をしていて、それ相応の結果だったら気にも留めないはず。

 

であれば、それは「ズルい」で終わらせず、真似できるところは真似していくのが得策だと思う(その人が「やたら恵まれた環境にいる」とかならどうしようもないかもしれないけど)。

 

手間を減らして同じ成果を出すことができれば、浮いた時間に他のこと(単に「休む」も含め)もできるので、そっちの方が良い。

 

嫉妬は自分の無意識の欲望を反映しているケースが多いと思うので、ポジティブな感情以上によく向き合った方が得るものが多いのかなと思ったり。

寝る前の読書の新たなお供は、M&R•フリードマンの『選択の自由[新装版] — 自立社会への挑戦』にした。国家のあり方などを再度考えたい。

1, 2時間で読み終えてしまう内容だと、「読み終わるまで寝ない」ということが起こりがちなのでそれなりの厚みがあった方が良い。

 

その点これは500ページ超あり、1ページあたりも文字数も多めなので、ちょうど良いと思った。

 

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Kindle版が見当たらなかったから、大学図書館で借りてきた。入構申請をすれば入れるようになったから、今後図書館は積極的に使っていこうと思う。

 

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『はしがき』。面白そう。前々から読もう読もうと思っていながら先送りになっていたものにようやく着手する。

 

少し前に「法人」というのはよく考えてみると面白いなと思い、その派生で「国家」についても考えることが増えた。

 

この本は一昨日借りて、昨日までは別の本を読んでいたので、ようやく今日読み始める。

 

昨今の世界の情勢を見ても、国家について再度考えた方が良いなと感じる機会が多いので、ちょうど良いタイミングだ。

 

内容をしっかり理解するように努めながらも、鵜呑みにしないように、ゆっくりよく考えながら読み進めていこうと思う。

 

期末の時期なので、別のことにも頭を使うことで、良い息抜きになれば良いな。

虚無は虚無として、そのようなゲームだと割り切って乗り切るしかない。授業の課題も日々の生活も。

そろそろ学期末なので、期末課題がどんどん出る。

 

研究もあるので、サクサクと消化していく必要がある。

 

それにしても虚無だ。

 

勉強一般は好きだけど、ちょうどこのタイミングに、ちょうどこの内容をやりたいかというと勿論そんなことはない。

 

この与えられたものをこなしていく受け身な感じが耐え難くなってきた。

 

それでも、一応在学中は真面目に取り組むと決めたので、ちゃんとこなしている。

 

一方で、なんでもかんでも「完璧」を求めて、時間をかけすぎるのは良くない、と少し前に思ったので、適当なところで見切りをつけることも意識するようにしている。

 

存在し得ない「完璧」を求め、1つのことに時間をかけすぎるのは、機会損失が大きすぎると思ったからだ。

 

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ある授業の中間課題では、普段の1/5程の時間しか費やさず、「流石にまずいかな……?」と思っていたものが、90/100という評価でとても驚いた。

 

自分が費やしていた時間の80%は90を100に近づけるための時間だったのか??

パレートの法則では「仕事の成果の8割は、費やした時間全体のうちの2割の時間で生み出している」とはいうが、それに近い結果となった。

 

これまでも1/5で切り上げていたら、単純計算で5倍の量の90/100の成果物を生み出すことができていたと思うとなんとも言えない気持ちになる。

 

このことに早めに気がつけて良かったということにしておく。

 

 

それにしても課題が面倒であることには変わりない。

今までよくこなしてきたものだ。

教授も採点が面倒だと思っていそうだし、学生もやるのが面倒だと思っていそうだし、これ要らなくない?という気持ち。

 

これが早く教育機関から退きたい理由の1つだ(教育機関が不要だという考えではない。自分でやりたい人は自分でやれば良くない?という感じ)。

 


あと1ヶ月はゲームだと割り切って乗り切るしかない。

 

テレビゲームのような所謂「ゲーム」はただのデジタル情報であり、その中でいくら頑張ろうと何かが生まれるわけではない。

授業の課題もやったからといって何かが発生するわけではないので同じようなものだ。

 

まぁそんなことを言い始めたら、人生もそんなものだけど。

その人が生きていたからといって、ヒト全体、地球全体、宇宙全体から見て何か意味があるかというと殆どないと思う。

 

あらゆることは広義のゲームだと割り切るしかない。

 

デジタルデータであっても熱中して充実感が得られるように、人生も「生きる意味」みたいな高尚なことは考えず、ただ目の前のことに熱中して楽しんでいれば良いのかもしれない。

言語習得のために単語や文法を勉強するのは、水の性質を知るために水素や酸素の性質を勉強するのと同じなのかもしれない。「全体」と「部分」の関係について。

「全体」と、「全体」を構成する「部分」の関係というのは非常に難しい。

 

タイトルにも挙げたが、水の分子式はH₂Oであり、2個の水素原子Hと1個の酸素原子Oから構成される。

 

しかし、水分子の持つ性質というのは、水素原子または酸素原子の持つ性質とは全く異なる。

 

よって、水分子の性質というのは、水素原子と酸素原子の性質の単純な和ではなく、両者の相互作用、結合様式に依るものであると考えられる。

そして、その「相互作用、結合様式」、あるいはそれが持つ/生み出す性質というのは、厳密に書き下せるものでもない。

 

 

上記のような話は「機械論と生気論」の議論に関連する。

 

少し前に、「脳に存在する神経伝達物質等もそれらを構成する粒子は物理法則に従うので、ある人がどの時刻にどんな行動や意思決定を行うかは予め定まっており、"自由意志"なるものは存在しないのではないか」と考えた。

 

そして、これは拡張すると、ビッグバンから現在に至るまでの、宇宙で起こった全ての現象(生命の誕生から、それらの活動に至るまで)は、理論上は予めわかっていたという話になる。

 

 

これは機械論と言われるものらしく、それに関連することを調べてみたことがあった。

 

機械論と生気論については、現在も折に触れて考えているテーマであり、詳細はまたの機会に書いてみようと思う。

 


簡単に書くと、「部分」を足し合わせても「全体」にはならないと考えるのが妥当ではないかということ。

「全体」と「部分の総和」との間には、「差分的な全体」があるはずである。

 


これを言語学習に当てはめてみると、ある「言語」という「全体」を知るために、その「部分」としての「単語」や「文法」を勉強するのはあまり本質的ではないということ(もちろん完全に無駄ではない)。

 

 

それよりは、まず「全体」としての言語、つまり、意味のある文章の纏まりを読んだり聴いたりする。

そして、曖昧な「部分」を調べて理解するなり、覚えるなりする。

そうすることで、「差異的な全体」を含んだ状態で、「部分」の穴を埋められると考えた。

 


実際に、現在フランス語を勉強しているが、単語や文法の勉強は殆どしていない。

いきなり、フランス語で書かれた本を読んだり、Podcastを聴いたりしている。

 

そして、内容のキーとなる単語で、これがわからないと主題すら把握できなくなりそうなものや、どうしても気になる文法だけ簡単に調べる方針にしている。

 

最近はなかなか言語学習に時間が割けていないが、徐々に理解度は上がっている実感がある。

 

 

 

英語学習においても似たような気づきがあった。

自分は日本で生まれ育ち、典型的な日本の英語教育を受けた。

中高生の頃、単語や文法を勉強しても大して英語の運用能力は上がらずに悩んでいたが、たくさん読んで、書いて、聴いてということを繰り返すようになってからようやく向上が見られた。

 

これは意味のある文章の纏まり、つまり、言語としての「全体」に触れることで、「差異的な全体」を補うことができたからなのではないかと今になって思う。

 

 

 

また、これはあらゆることに共通すると思う。

 

「とりあえず、実際にやってみよう!」、「準備よりもまずは実践!」ということが自己啓発の文脈で語られることが多いが、これは経験から、「差異的な全体」の存在に気がついているからなのではないかと考えた。

 

「部分」が殆ど揃っていない状態でも、とりあえずやってみる、つまり「全体」に触れてみることで、「差異的な全体」を把握することができる。

 

それから、不足している「部分」を補えば良いという話だと考えた。

 

 


とりあえずは、この仮説のもと、フランス語を勉強を続けていこうと思う。