さとし日記

都内大学院生のブログ

ブログは一旦小休止してNoteに移行することにした。

ブログのUXはやや粗削りな印象を受け、インターネット黎明期の残り香を感じることができるので、かなり好きだった。

 

ただ、web版でないと使えない機能があったりなど、スマホアプリの操作性の点ではいくつか難点があった。

 

 


また、もうじき大学院からは少し距離を置くことにもなりそうなので、心機一転ということで。

 

理由は色々あるけど、ここには書かないことにしておく。

 

指導教官の先生は勿論、入学当初から(中には研究室見学に行った時から)親切にしてくれた研究室の先輩方には最大限の感謝と敬意を。

 

 

 


というわけでさっきNoteのアカウントを作ってみた。

 

note.com

 

 

まだあまり仕組みを理解できていないけど、もしよかったらフォローお願いします。

 

あと今まで惰性で毎日更新していたけど、今後は不定期にするつもり。

まぁまた気が変わるかもしれないけど。

 

というわけで今までブログを読んでくれた人はありがとうございました。

机の用途のコンフリクトが起こらないように、床でご飯を食べるようになった。

勉強机で勉強以外のことをしてしまうと頭が混乱し、集中力が途切れる原因になるのではないかと思った。

 

前までも一応勉強以外のことは机の右端でやるようにして棲み分けをしていたが、やや生ぬるい気がしたので完全に分けることにした。

 

狭い部屋で机は勉強机の1つしかないし、それもスタンディングデスクなので、自室には椅子が存在しない。

 

なので必然的に床で食べることになる。


理想を言えば優雅に机を使い、椅子に腰掛けて食べたいが、これで少しでも作業が捗るようになるのであれば妥協できる。


まぁ昭和初期頃までは銘々膳を床に置いて食べていたわけだし。


歴史的には今の自分のスタイルの方が主流であった時期が長いので良しとする。

 

 

 


あらゆる場面において、リソース(時間、空間、お金等々)は有限なので、どこかで折り合いをつける必要がある。


自分の妥協できること、できないことを明確にして、大切なことに資源を使えるようにした方が良いよなという感じ。


そして使える資源が増えてきたら分配の仕方を再考していく。

 

これも後で振り返れば良い思い出になるはず。

明るさが0から100まである時、99.99と100の差はわからないけど、0と0.01の差はわかる。文脈によって異なる「0」の意味。気がついたことのちょっとしたメモ。

タイトルの文脈における「0」は、度合いが0の明るさが存在しているという意味で扱っている。

 

一方で、明るさが0というのは真っ暗なわけで、光が存在する[1]か、しないか[0]、という二進数の0としても語れる。

 

この時、明るさを表す値、0より大きく、100以下の任意の実数は全て、光が存在する「1」として括られる。

 

タイトルにおける「0と0.01の差」には、0.01という明るさ値の差の他にも、光が存在するかしないかという、0,1の意味での差も含まれている。

 

だから「0と0.01の差」は「99.99と100の差」よりも感度が高いのだろう。

 

それがどうしたのかというと特にないけど、気がついたことのちょっとしたメモ。

間違えていることを堂々と言う人と、正しいことをオドオドと言う人だと、前者の方が支持されてしまう。

あとは発言者の知名度とか、学歴とかそういうのもかな。

 


個人的に匿名掲示板における議論が面白いと思うのは、そのような表面的なテクニックとか属人性を排して、ソースと論理だけで成立していた点にある。

 

ただ、最近はその舞台が匿名掲示板からTwitterを始めとするSNSに移った。

 

Twitterにおけるレスバトルのようなものはたまに目にするが、そこでは両者の「ファン」が「この人が言っているなら正しいはず!」みたいな感じで支持している印象を受ける。

何を言うかよりも誰が言うかの世界。

 


リアルな場でも、プレゼンテーションなんかは、内容に多少穴があっても、堂々とそれっぽく話すことで押し切れたりしてしまう。

 

そのようなスキルも実用面では重要だとは思うが、個人的にはあまり好きではない。

 


オフラインからオンラインに移行すると、その人が着ているスーツとか、つけている時計とか、そのような本質的でないところから生じる説得力は削られていく傾向にあるので良いことだと思う。

 

でも今度はwebカメラの画質とか、通信速度とかそういうのに左右されることになるのかな。。

 


それらを完全に排したテキストベースでのやりとりでも、テクニカルタームを散りばめるとそれっぽく聞こえてしまうこともあるし、なかなか難しい問題。

20mシャトルランという単なるドMゲーはずっと学年で一番だった、ドMなので。ヤケ酒よりもランナーズハイ。

小1の時はルールがわからず気がついたら終わっていたので、正確には小2から小6までか。

 

あれは体力どうこうよりも、精神的なものが問われている気がする。

 

100回を超えた辺りからかなりつらくなってくるが、そこからが特に楽しい。

 

意識が朦朧としてきて普段味わえない高揚感を得ることができる。

 

しかもスポーツテストでは最後自分一人になるので、周りが全員見ている中で、意識が朦朧とした人間が一人で走り続けるという非日常性の極み。これは楽しい。

 

 


小学生の頃は通年で野球と水泳をやっていたが、陸上も少しだけやっていた。

 

毎年秋頃に市内で陸上大会が開催され、その数ヶ月前から参加希望者が募られ、小学校で臨時の「陸上部」の活動が始まる。

 

自分も長距離の選手として参加していた。

 

陸上部の活動がある時期は今思うと本当にハードだったと思う。

 

朝練がある時は授業前にひたすら元気に走り、それから元気に授業を受け、休み時間は元気にドッジボールをし、放課後も元気に陸上部の練習、小5,6の時はそこから更に元気に塾にも行っていたので、本当に元気元気。

 

 


きっと性格的にそのようなものが好きなのだと思う。

 

数年前まで平気で1日14-16時間くらい勉強していたのも同じ感覚だったのかもしれない(runner’s highならぬlearner’s high?)。

 

長時間ずっと頭を使っていると、ぼーっとしてくるが、その感覚が好きでやっていた節もあったと思う。

 

ただそれは完全に手段と目的が混在してしまっているので、勉強の効率は著しく悪い。なのでここ1,2年で頑張って改善した。

 

 


上記のように勉強では返って災いしてしまったが、このような性格が役に立つこともある。

 

というのも、何かつらいことや嫌なことがあっても、それを極めて健康的に解消することができる。

 

「ヤケ酒」という言葉をよく聞くが、自分はそのようなことは一度もやったことがない。

 

それよりも20秒ダッシュと10秒の休憩を1セットにして、それを意識が朦朧とするまで繰り返した方が手っ取り早く忘れられる。

 

お酒よりも健康的だし経済的だし、何より効果的だと思う。

 

これで大抵のことは忘れられるし、ご飯も美味しくなるし、気分よくすぐに眠ることもできる。

 

 

日々の労働や研究でストレスを抱えている方は是非お試しあれ?

落ち着かない日常は目の前にある美や陰翳との接点を失わせる。

いつもは徒歩での移動中、Podcastかaudiobookを聴いているが、たまには何も聴かずにのんびりと歩くのも良いものだ。

 

基本的に自分のやりたい勉強であったら家でも問題なくできるけど、そうではないもの(授業の課題とか)の場合はカフェでやることが多い。

 

近くのカフェまでの歩き慣れた道のりでも、注意を払ってみると、こぢんまりとした雰囲気の良いレストランや小さな花々などもあって趣深い。

 

(一方で場所柄、酔っ払いが思いっきり嘔吐しているのもいつも以上に見えてしまうが……)

 

忙しい時期ほど、このように意識的にのんびりとする時間を設けた方が良いかもしれない。

 

精神的な余裕がないと長期的な視点を失い、短絡的な発想に陥りがちだ。

 

残り僅かな?学生生活を踏みしめつつ今学期を乗り切りたい。

「数学は大切。例えばこの分野でも統計は使う。」みたいな話は個人的な考えとは大きくズレる。

実用面に焦点を当てて語るのであれば、数学は、物事を構造的に捉えたり、論理的に考えたりといった思考力を養うという点で重要なのではないかと思う。

 

個々の統計的な手法とか微積分の計算とか、それこそ計算力みたいな話は、第一義的ではないと感じる。

 

だから、「微積分はこういうところにも使われている」みたいな話はやや違和感を覚える。
重要なのはそのような考え方や概念の方ではないかと思う。

 


それに興味がないならやらなくても良いのではないかという立場でもある。

 

基本的に強制されたものというのはあまり身につかないと思うし、学びはあらゆる領域が有機的に繋がっているものだから、入り口はどこでも良いように思う。

 

それよりも何かに興味を持ち、自分で調べたり考えたりするという好奇心の芽を摘まないことの方が大切なのではないか。

 


それに、「学習」そのものも、教科書に書かれたことを勉強する狭義の意味だけでなく、シナプス結合の変化一般と捉えた方が実態に即していると思う。

 

イチロー氏や市川海老蔵氏など、各界で活躍している/した人々の中には、学校の勉強は「捨てた」と言っている人も少なくないが、極めて緻密で論理的、分析的な思考をしている。

 

現状を批判的に捉え、試行錯誤をする中で常に仮説の検証と修正を繰り返していくことは、学習そのものだと思う。

 


人間には、自分の持ち物の価値は高く評価してしまう傾向があるらしく、それは有形・無形問わないと思う。

 

苦労して勉強し獲得したものは特に高い価値を見出してしまい、他の人にも習得を促すということに繋がるのではないかと感じた。